有本義明さん死去 新聞記者からプロ野球指揮官 甲子園準V投手
スポーツ紙記者からプロ野球2軍監督という異例の転身を果たした、スポーツニッポン新聞社特別編集委員で元ダイエー(現ソフトバンク)2軍監督の有本義明(ありもと・よしあき)さんが8月31日、死去した。兵庫県芦屋市出身。95歳だった。葬儀は3日に親族で執り行われた。 生涯記者で生涯野球人だった。芦屋中、高(兵庫)では投手として49年選抜準優勝など、4度の甲子園大会に出場。慶大では二塁手に転向し、53年には主将も務めた。54年にスポーツニッポン新聞社に入社。野球担当記者、運動部長を務める中、52年秋にダイエーの2軍監督に就任した。 当時、西武のフロントだった“寝業師”根本陸夫氏がダイエーの監督に就任。その際、親交が深かった根本氏に「俺を手伝ってくれ」と2軍監督就任を打診された。新聞記者からのプロ野球2軍監督就任は、後にヤクルトで球団社長を務めた田口周氏以来という異例の転身だった。1999年4月、根本氏が死去したスポニチ紙面で、有本さんは「弟のように接していただいた」と感謝している。 93年1月4日に2軍監督として正式契約した際には「選手は平均7年未満でやめていく世界。野球の寿命は短いし、時間はあるようでないんだと訴えていきたい」と技術よりも心構えを重点にした指導を強調。当時としては珍しく罰金制度の見直しなど、記者らしい発想での改革にも挑んだ。選手を愛称や名前で呼ぶことも禁じ「だって、たぐいまれな才能を持ち選ばれてプロ入りした選手を名前や愛称で呼び捨てるのは失礼だよ」と話していた。90年ドラフト2位で入団し当時内野手だった内之倉隆志を捕手へコンバートさせたのも話題になった。 95年まで指揮をとった後に退団。その後はスポニチで再び編集委員などの肩書でコラムなどを担当。ラジオニッポンでプロ野球中継の解説も担当した。 晩年まで記者としてプロ野球取材のIDパスを手元に置き、毎日紙面をくまなくチェックするのが日課だった。球児時代から野球の世界を駆け抜けた有本さん。この日都内で行われた葬儀では、背番号「71」が入ったダイエー2軍監督時代のジャンパー、ユニホームで包まれた棺で、静かに旅立った。 有本 義明(ありもと・よしあき)1931年(昭6)6月1日、兵庫県芦屋市出身。芦屋中、高でエースとして甲子園に4度出場。1メートル65で“小さな大投手”の異名をとり49年選抜で準優勝、夏は8強入りした。慶大では二塁手に転向し、4年春秋に年間無失策を達成。54年スポーツニッポン新聞社入社。運動部長を経て野球評論家となり、93年に福岡ダイエーホークス2軍監督に就任。95年まで3年間指揮を執った。退団後はラジオ解説者などを務めた。
2026年9月3日 17:30






































